寡黙な卸の社長が怒った日と、ぼそっと言った一言。冬のパッキングと、半年後のこと
寡黙な社長と、冬の面倒くさい手間
当時の卸の社長は、ほんとうに寡黙な人で、ひと言でいえば職人でした。教え方も「見て盗め」というタイプです。
冬のハウスはなんせ寒い場所でした。通勤だけでも寒いので、朝いちばんに水槽へ手を入れる瞬間が、ホッとするひとときでした。長靴をはいていても足元は冷たく、ハウスの温管で灯油を焚いても底冷えは防げません。忙しいときには扉を閉め忘れて怒られていました。
パッキングの作業場には、小さな昭和のストーブがあり、その上にはやかんがのっていました。休憩時間になると、みんなでそのお湯を使って、コーヒーや紅茶を飲みます。
その日の出荷は、15時までにFAXで注文が入った分だけでした。15時からパッキングを始めて17時ごろには終わり、出荷が済めばその日の仕事もおしまいです。
冬のパッキングにはひと手間かかり、発泡スチロールの箱の四隅にホッカイロを入れ、小さな袋にストーブのやかんのお湯を入れて魚の袋といっしょに詰め、箱には空気穴もあけました。最初はお湯が温め、そのあとでホッカイロが発熱していくので、箱の中の温度に差が出ず、死着が出にくくなります。休憩のコーヒーを入れるやかんと、魚の袋に入れるお湯のやかんは、同じやかんでした。
カイロが入っていて温かいのに死着が出ることがあるのは温度が足りないからではなく温度が急に変わるからだと私は考えています。この手間はその急な変化を出さないためのもので、ここまで考えて手間をかける卸は、ほかにはそうありませんでした。
私はショップ店員から卸へ転職してきたので、ある程度の知識はありました。それでも、この手間を見て思ったのは、「面倒くさいことしてるなー」というくらいのことです。
死着の電話
ある日、発送先から死着の報告の電話がかかってきて、私が出ました。相手はえらい勢いで温度のことを言ってきて、確か新規の取引先だったと思います。私がしどろもどろになっていると、社長が電話を代わりました。
そこからが見ものでした。あの寡黙な社長が、新規の取引先に向かって怒り出したのです。
「うちはこういうやり方でやっているから、ありえない。言いがかりだ」
お湯も空気穴もうちはこうやっているという言い方でした。思い返せば、相手は「発泡スチロールに穴が空いているから、死着したのだ」というような言い方をしていました。
あとで分かったこと
あとあとこれは言いがかりだったと分かりました。相手は総合ペットショップの一担当者で、調子に乗って一発かましてやろうくらいのつもりだったようです。確かに死着が数匹あったのを温度のせいにして、今回の便を全部無料にしてしまえと考えていたらしく、魚は死着していなくても、あとから袋ごとだめになることがあるので、全部だめだったことにして、あとで治ったらラッキーくらいの感覚だったのでしょう。
総合ペットショップの担当は、意外とたくさんの種類を扱います。それに初心者のお客さんが多いので、ちやほやされて先生のような気分になり、調子にのることがよくあり、他の店を批判したりもします。そんな人が卸に噛みついて返り討ちにあうパターンを、私は目の前で見たのです。
返り討ちにあった新規の取引先は、社長の知識の深さに感銘を受けて、そのあと信者といえるくらいのファンになりました。
ただ当の社長は、電話を切ったあとも何も言わず顔もいつも通りでした。ずいぶんたってから、ひと言だけこう言いました。
「うちの大事な魚を大事にできない取引先なんか、いらん」
休憩時間に、ぼそっと言われた
卸では、月に1回くらい、お客さんが訪ねてきました。私はもともとショップ店員なので、初めは、「君が接客しなさい」と言われていました。
私は魚が好きで卸の仕事に就きましたが、卸の仕事は黙々と作業を続ける仕事です。それに対して来客の接客は、魚を通してお客さんと話ができる時間でした。
その接客が3回目になったころ、休憩時間に社長と2人になるタイミングがありました。そのとき、社長が、ぼそっと言ったのです。
「君に向いているのは、この仕事じゃない。人と関わる仕事やで」
その言葉で、私は気づきました。
「あ、俺って、魚が好きなんじゃなくて、好きな魚を通してお客さんと話をすることが好きなんや」
私はそれをきっかけに卸をやめ、半年後に、人と関わる仕事に就きました。